ロードレース世界選手権の最高峰クラスで鮮烈な走りを見せ続けたのがノリックの愛称で親しまれた故阿部典史だ。1996年の第3戦日本GP(三重県・鈴鹿サーキット)で初優勝を果たし、日本人が大活躍した黄金期の中心を担った。しかし、全日本選手権に復帰した2007年に交通事故に見舞われ32歳で他界してしまった天才ライダー。
経歴
東京都世田谷区出身。父はオートレース選手の阿部光雄。5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験した。15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修業をする。全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった。
1994年にはロードレース世界選手権(WGP)日本GPでケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハン等と苛烈なトップ争いを繰り広げながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなデビューを飾る。阿部のパフォーマンスのインパクトは、バレンティーノ・ロッシがこの阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。 後にバレンティーノ・ロッシは、自分からサインを求めたのは後にも先にもノリックだけと語っている。
シーズン前の状況では、阿部は全日本ロードレース選手権・スーパーバイククラスへの参戦が予定されており、WGPへの参戦予定は、前年度に国内500ccチャンピオンを獲得したことによるワイルドカードでの日本GPただ一戦のみであった。阿部は「ほかのライダー達にとってはシーズンの始まりの一戦だが、僕にとってはこの日本GPが今年のシーズン全てだった。」と後に語っている。結果はドゥーハンらを抜き去るだけ抜き去ってリタイアしてしまったため、抜かれたドゥーハンが「阿部は確かに良いライダーだが、もう少し僕の後ろを走る必要があった。」とコメントを出している。
この時点で阿部はホンダ陣営の所属だったが(サテライトチームのチームブルーフォックスに在籍していた)、この時の実力を高く評価したウェイン・レイニーからの強い誘いにより、シーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たし、WGPにさらに2戦スポット参戦した。当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた日本人ライダーと契約する前例はなく、ウェイン・レイニーの強い希望によって実現したといえる。ヤマハ側としても、日本人の500ccグランプリライダー、それも優勝争いに加われるレベルのライダーがたとえ他メーカーの所属だとしても欲しかったこと、バブル崩壊の余波でチームブルーフォックスが経営難に陥っていたため、阿部を引き止められる状況ではなかった(むしろヤマハから違約金をもらってチームの経営を立て直すことが急務だった)ことも要因として挙げられる。
1995年よりWGPフル参戦。1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。
2005年よりスーパーバイク世界選手権に参戦の場を移す。2007年より13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰を果たし、当期6戦を終え総合3位。自身のオフィシャルサイトでは10月20日に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていた。
輝かしい戦績
- 1988年 – 13歳でレースデビュー
- 1991年 – アメリカでダートトラック、モトクロスなどに出場
- 1992年 – スーパーカップイースタンシリーズ250ccランキング2位
- 1993年 – 全日本ロードレース選手権500ccチャンピオン
- 1994年 – 全日本ロードレース選手権スーパーバイク参戦
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- ロードレース世界選手権500ccデビュー
- 1995年 – WGP500ccランキング9位/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
- 1996年 – WGP500ccランキング5位 1勝 (日本GP)/マルボロ・ヤマハ・ロバーツ
- 1997年 – WGP500ccランキング7位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
- 1998年 – WGP500ccランキング8位/マルボロ・ヤマハ・レイニー
- 1999年 – WGP500ccランキング6位 1勝 (リオGP)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2000年 – WGP500ccランキング8位 1勝 (日本GP)/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2001年 – WGP500ccランキング7位/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2002年 – MotoGPランキング6位/アンテナ3・ヤマハ・ダンティン
- 2003年 – MotoGPランキング16位(スポット参戦)
- 2004年 – MotoGPランキング13位/フォルチュナー・ゴロワーズ・ヤマハ・テック3
- 2005年 – スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
- 2006年 – スーパーバイク世界選手権ランキング13位/ヤマハモーターフランス
- 2007年 – 全日本ロードレース選手権JSB1000ランキング8位(ワイズギア・レーシング/ヤマハYZF-R1)
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース9位(ジェイミー・スタファー/YAMAHA RACING 81/ヤマハYZF-R1)
悲しい事故
2007年10月7日午後6時20分頃、神奈川県川崎市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右側車線を500ccスクーター型バイク(黒いヤマハ・TMAX)で北上中、左側車線から突然Uターンしてきたコンビニエンスストア配送用の4トントラックに衝突。午後8時50分過ぎ、搬送先の病院にて32歳で死去。なお現場はUターン禁止区域だったため、このトラック運転手は起訴され、禁固1年4ヶ月(執行猶予3年)の判決を受けた。
戒名は正道院弐輪英雄典久大居士(しょうどういんにりんえいゆうのりっくだいこじ)。
最後に・・
2023年10月7日で阿部典史氏が息を引き取ってから16年が経ちました。
あまりにも早すぎる突然の死に衝撃を受けた事を思い出します。
ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハン、バレンティーノ・ロッシ・・・
彼らと激戦を繰り広げていたノリック。
あの頃を思い出せば涙が出てきます。
ご冥福をお祈り申し上げます。